人生再起の記録

30代後半で仕事・お金・友達・人脈を失ったところからの再起の記録

阪神淡路大震災から20年 当時を記録しておく

阪神淡路大震災から20年が経つ。

僕は地震があった1995年当時は神戸に住む高校2年生だった。

あれから20年経ち僕は37歳になった。

 

僕は地震のことは早く忘れたいと思っていた。

だから目の前の現実から逃れるように僕は高校卒業後に東京に出た。

「東京の方が関西よりもチャンスが多いから東京の大学に行きたい」と体のいい理由を言って実際は、逃げ出したかったのが本当の理由。

東京に出てきた時、関東の人たちは僕が思うよりずっと地震について知らなかった。

彼らの中ではどこか遠くの国で起きた出来事のような扱いだった。

それは現実から逃げ出したかった僕には好都合で、周りに神戸出身だと言うと「地震大丈夫だった?」と聞かれることはあったけれど、出身地について自分から触れなければ特段聞かれることもなかったし、地震について話すこともなかった。

 

そうして、僕は地震について少しずつ忘れていった。

しかし、忘れていくと今度は忘れていくことに怖さを感じるようになった。

あれだけ地震のことは忘れたいと思っていたのに、忘れ始めると今度は忘れたくないと思うようになった。本当に僕はいい加減な人間だと思う。

だけど、もしかしたら今になって僕は地震のことを地震を知らない人たちに伝えたいという思いが出てきたのかもしれない。

それは、レベルは違うことかもしれないけれど、戦争を経験してきた人たちが後に戦争のことを話し始めたことに近いかもしれない。

 

阪神淡路大震災から20年。

忘れようとしていただけに細かい部分は忘れてしまったが、地震のことを記録しておこうと思う。

既にメディアを通じて取り上げられていたことと重複することも多いから、目新しい事実なんかはないし、何か具体的なメッセージがあるわけでもない。

だけど、地震を経験した立場の一人の視点の記録が、もしかしたらいつか誰かが読んで何かの役に少しでも立つことを願って。

 

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1995年1月17日(火)

この日は三連休明けだった。

僕は、運動部に所属していて、この日も朝練のため、いつも通り朝5時に起きた。

僕の朝の家での仕事は、犬の散歩。

 

1月の朝五時は真っ暗で、懐中電灯を持って散歩に出かける。

いつもに増してとても空気の冷たい朝だった。

いつものように5時半に犬を連れ出し、いつもの散歩のコースを懐中電灯を照らしながら歩く。

散歩のコースは家の近所にある小さな公園まで往復20分くらい。

公園で折り返して家に向かう途中、空が一瞬明るくなった。

そして午前5時46分。地震発生。

 

阪神淡路大震災の直下型の地震の揺れをイメージするならば、映画で地面に爆撃を食らって主人公が吹っ飛ぶシーンを想像したらよいかもしれない。

路上にいた僕と犬は強い衝撃と共に上に吹っ飛ばされた。実際に宙に浮いた。

その瞬間、街灯と電線が花火をチラシ消えた。

そして次の瞬間、大きな横揺れが始まった。

ここまで3秒くらいの印象。

 

大きな揺れは、揺れ幅が大きく、僕がそれまで知識として持っていた地震の揺れではなかった。

地震の揺れというより衝撃に近い揺れといった感想。

実際にその時の僕は近くに隕石が落ちたか大型旅客機が落ちたかというくらい、衝撃という印象だった。

揺れの種類もグラグラではなく、ドーンドーンといった横揺れ。

僕は立っていられずに地面に四つん這いになって衝撃に近い揺れに耐えた。犬は伏せの状態で全身を地面に密着して耐えたいた。

電柱が揺れ電線がまるで縄跳びのように空気を切る音がする。

僕の体の下にあるアスファルトがすごい音を立ててひび割れた。

家の塀が路上に崩れてくる。

 

揺れている時間は3分くらい揺れていたと感じた。

実際の時間よりもとても長い間揺れていたという印象だった。

揺れている間、僕は自分が死ぬかもしれないと思った。

生まれた初めて「自分の死」を意識したことをよく覚えている。

かなり怖かった。 

 

揺れが収まった後、犬と急いで自宅へ戻る。

街灯は消えたままだったけれど、懐中電灯を持って出ていたので、

真っ暗な道を照らしながら歩く。

 

街が恐ろしいほど静かだった。

僕の自宅は住宅街にあるので元々静かな方ではあるけれど、

いつもにまして静かだった。自分と犬が地面をける音が響く。

 

自宅に着くと、家の玄関側の塀の上半分が崩れていた。

ただ、家そのものは大丈夫だった。

家に入ると家族が懐中電灯を付けて既に居間に集まっていて、ラジオを聞いていた。

まだ電気が切れたままでテレビが見れなかった。

水道とガスも止まったままだった。

 

ラジオのNHKのニュースでは地震があったとしか言っていない。

日本のどこで地震があったのかも、どのくらいの被害なのかも全く分からない。

この時は、まさか自分の住む阪神淡路エリアが震源だとは思いもしなかった。

正直、東京かどこかで大きな地震があったに違いないと思っていた。

そのくらい関西は地震には縁遠い地域だった。

自分たちの住むエリアで地震が起こるなんて学者も言っていなかったし、学校の先生も言っていなかった、祖父母や両親も言っていなかった。

きっと東京でとてつもなく大きな地震があって日本中が大変なことになっているんだろうと思っていた。

 

ラジオから入ってくる情報だけでは状況が分からないため、6時半くらいになって辺りが明るくなると僕は、家族を代表して自転車で街の様子を見に行った。

家族の中で一番体力があったのと、何が起こったのかを早く知りたかったから。

 

まず最寄りの地下鉄の駅に行った。

地下鉄は動いていなかった。

駅員が言うには、地下鉄のトンネル内が崩れていて当面動かないという。

次に神戸の中心地である三ノ宮に向かった。

 

三ノ宮が近づくにつれて、徐々に家や建物が崩壊しているのが目立ってきた。

どうやら僕の自宅のあるエリアは被害が少なかったようだ。

ガラスが割れているビルも増えてきた。

歩道もいたるところがひび割れたり隆起したり、陥没していて、路面がガタガタで

自転車で進むことが難しくなり、自転車から降りて進んだ。

 

三ノ宮エリアに入るとまず目に飛び込んできたのが、神戸の人たちの多くの人が参拝する生田神社。

僕もつい2週間ほど前にこの神社に初詣に行ったばかり。

その生田神社は本殿が完全に崩れ、屋根が本殿を押し潰していた。

神戸の多くの人が参拝した神社が崩れていることに、大きな恐れを感じた。
きっと自分や家族の夢の実現・健康・安全を祈願したに違いないのに、まるでそれは叶えられないと言わんとばかりの悲惨さだった。

僕は生まれて初めて目の前の出来事に大きなショックを受けるという経験をした。

 

生田神社の近くに警察署があったので、そこで何か情報を収集しようと警察署に顔を出してみたが、入り口に入っても誰もいなかった。

みんな外へ出てしまったのだろうか?

とりあえず、警察署での情報収取は諦め、警察署を出て先に進んだ。

 

三ノ宮駅の近くの幹線道路(フラワーロード)沿いの光景に再びショックを受ける。

まず、雑居ビルが一棟が根こそぎ倒れ、四車線ある道路に横たわっていた。

ビルが倒れるものだとは考えたことなんてなく、昨日、この倒れたビルの向かい側にある代々木ゼミナールに通ったところだ。この三連休に歩いたところにビルが横たわっている様子は、信じたくないけれど現実だった。

周辺にある雑居ビルも崩れるか崩れていなくても斜めになっていて、自分の平衡感覚がおかしくなり、上を見上げていると気分が悪くなってきた。

 

次に三ノ宮駅に向かう。

駅を挟んで北側(山側)にある阪急三宮駅ビルが大きく崩れていた。

更に海側にある阪神三ノ宮駅ビルもビルの表面が崩れ、表面の下にあった昔の看板が露出していた。

阪神三ノ宮駅ビルに隣接する百貨店そごうに関しては、ビルがえぐれるように崩れていた。

そごうにはこの三連休に家族で買い物に行ったばかり。

恐ろしくなった。

 

そして、そごうの道を挟んで反対側にある三ノ宮で最も賑わうセンター街は、アーケドや看板が崩れて廃墟のようになっていた。

僕はその様子を見て、体が震えて口も震えたいたのを今でも覚えている。

寒さもあったけれど、寒さだけでなく恐怖と目の前の現実への驚きと悲しさみたいなものがごっちゃになって震えた。

 

僕が物心付いた時から、三ノ宮駅ビルはあったし、そごうもあった。

センター街もあって、たくさんの人で賑う様子しか知らない。

だけど、目の前にあるのは、崩壊し、ほとんど誰もいない駅とセンター街。

夢にも見たいことのない状況だった。

 

体が震えるのを堪えながら、僕は南(海側)へ進んだ。海沿いにまた警察署があり、

昔剣道を習っていた時に毎週通っていたので、この警察署なら誰かいるだろうと思い、2階の受付に行ってみた。

そこにも誰もいなかった。

警察署沿いには高速道路と幹線道路が通っているけれど、車の走る音がしないとても不気味な様子だった。

 

海沿いに海の方を見ると、船着き場が大きく崩れていた。

ポートタワーや海洋博物館のあるメリケンパークに到着すると、ポートタワーが斜めに傾むてい見える。だけど斜めに見えるのは、自分の足元がガタガタで自分が斜めに立っているためだと気が付く。

ポートタワーの先にある開業前の神戸メリケンパークオリエンタルホテルの敷地まで行くと、南西の方角の空が黒かった。

その黒い大きなものが何か分からなかったが、とても嫌な予感がした。

 

僕は自転車でデコボコの道を全速力でその黒いものがある場所へ向かった。

かなりの距離があったけれど、幹線道路沿いに走った。

その黒いものが近づいてくると、それが黒煙だと分かった。

徐々に道添の家や建物に火がついているのが見えた。

火災の煙だった。

そこから僕は自転車を降りて走った。

 もしかして、まさかと思いながら。

 

須磨区にある鷹取の街全体が火の海となっていた。

火の海となった鷹取の様子は、空撮された映像がその後阪神淡路大震災の代表的な映像として、テレビで何度も何度も何度も流された。

幹線道路から側道い入れないくら炎と熱が激しく近づけない。

寒いのに炎で熱い。目の前の状況が信じらなかった。

消防車のサイレンは聞こえるけれど、この場に消防車はいない。

 

僕はこの三連休に、鷹取に住む部活の試合で知り合った友人の自宅に遊び行った。

僕は人見知りなのだけど、珍しく自分から声を掛けたことから付き合いが始まった友人だ。

友人は、一人っ子で両親とこの鷹取に住んでいた。

この友人と両親の安否が分からなった。

幹線道路から、友人の家をを見ると明らかに燃えていた。

僕は焦り、とにかく周辺にいる人に「○○さん一家知りませんか?」と聞いてまわったが、友人と両親の安否を知る人はいなかった。

 

ここからしばらく僕の記憶があまりない。

街の人々が着の身着のままで道路に集まっている場所を見つけては、友人と両親のことを聞いてまわったことはなんとなく覚えているけれど、どれくらいの時間そうしていたのかあまり覚えていない。

 

僕は、友人と両親の安否が分からないまま自宅に帰ることができず、消火活動を手伝いながら(だけど消火活動はほとんど意味がないくらいの火災だった)、その日を過ごした。

停電した街を炎の明かりが照らしていた。

 

次の日の朝、空が明るくなり街の様子が見えると、街は焼野原となっていた。

教科書やテレビで見たことのある空襲を受けたあとのようだった。

まだ部分的には燃えていて、周囲は熱かった。

商店街のアーケードは燃えて骨組だけが残っていた。

街全体が焼けていて、友人の自宅がどこか分からないくらいだった。

いろいろな目印を頼りに友人の自宅を発見したが友人の自宅も全焼だった。

 

そして友人と両親は、崩れた自宅の下敷きになってそのまま焼け死んでいた。

 

僕は、その後、焼け跡から友人の親せきの方と遺体を回収し、遺品で残っているものを回収した。

友人の焼けた遺体を回収するなんて、高校生の僕には耐えがたく辛かったけれど、せめてものという気持ちだった。

遺品を回収しているとき、テレビ局の人が焼野原を撮影していた。

そしてレポーターが、友人の親せきの方に「どなたか亡くられたんですか?」とマイクを向けたきた。

僕は、そのレポーターの配慮のない様子にキレてしまい、レポーターを殴り、カメラを地面に叩き付けた。

人を殴ったり、人の物を叩きつけて壊すなんて、その後もこの時一度だけだ。
暴力を振るうのは嫌いだったし、暴力を振るう人間を軽蔑していた。

だけど、僕は気が付いたら殴っていた。カメラを壊していた。

 

振り返ってみると、当時の自分は疲労とやり場のない怒りで自分が思うよりもかなりイライラしていたのだと思う。

大人に対しての不信感が強くなったことも覚えている。

当時、上空をメディアのヘリコプターがたくさん飛んでいた。
その音にもイライラしていた。

現場では、食糧や水など物資が何もないので、上空のたくさんのヘリコプターを見ては、「ヘリコプターあるんやったら、物資運ぶとか手伝だえや!」と何度も思った。

当時の村山首相が自衛隊被災地への派遣を認めなかったり、海外からの救援隊の派遣を断ったりする様子にもイライラしていた。

地震の後、学者たちが手のひらを返したように「関西を含む全国どこでも地震が起こりえる」と言い出す様子にもイライラした。

 

災害があった時、国のトップや社会的に偉いとされる人は当てにならないと思った。

 

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以上が、震災当日から翌日の様子。

 

その後、僕の自宅では地震から3日後の1月20日に水道とガスが復旧した。
同じく3日目には救援物資も届くようになった。
僕の家にはたままた食糧と水の備蓄があったので、食糧と水に困ることは一度もなかった。

だけど、救援物資が十分に届いている場所(むしろ余っている)と全く届いていない場所があって、僕は自転車で余った救援物資を救援物資の来ていない非難所へ持っていた。

物資が届いてない地域では、半壊したコンビニや店から物資を盗んでいる人たちも多くいた。盗みは犯罪ときれいごとは言っていられない状況だった。

地震から一週間くらいたって、僕の自宅の近所の空き地が自衛隊のキャンプ地となった。そこでは、簡易風呂が用意され、女性を優先に開放された。

自衛隊が来てくれてから、がれきの撤去や道路の整備がものすごい速さで進んだ。

それまで自衛隊は、他国からの侵略時に戦うものだと思っていて、災害時にも自衛隊が動いてくれるとは知らなくて自衛隊があってよかったと思った。

逆に自衛隊がいなかったら、復旧はもっと遅くなっていたんだろうとも思った。

 

学校は、地震後しばらく休みだった。10日後に再開したけれど、ほとんどの生徒が来ていなくて、実質3学期は休み状態だった。

僕の高校はグランドは無傷で、部活の顧問の先生が、あえて部活は再開した。

この時期に部活なんていう声はあったけれど、僕は顧問の先生の判断に感謝している。

部活をしている間は、僕らは普通の高校生に戻れたから。

 

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阪神淡路大震災から20年。

長かったようでとてもあっというまの20年。

地震のことを直接知らない人も増えてきたという。

阪神エリアで阪神淡路大震災のことが風化されることはある程度仕方がないと思う。

忘れることで生きていくのだから。

僕のように忘れようとしてきた人だっていると思う。

 

ここまで書きながら久しぶりに地震のことを思い返してみた。

また、地震で亡くなった友人や友人の両親のことも思い出してみた。

生き残った一人として、亡くなった友人にとても誇れる生き方なんてしていない。

むしろ恥ずかしいくらいの人生。

 

2015年1月17日は、神戸に行こうと思っている。

神戸を離れてから初めて1月17日に神戸を訪れる。

そして、友人のお墓に行って、この20年間の報告をしてこよう。