連絡の取れなくなった旧友を探すことに決めた
僕は2014年末に僕の全ての友達を失った。
友達を失った原因は、僕が不誠実だったということ。
だけど、失った友達の中に唯一僕の不誠実のためではなくて、
単純に連絡が取れなくなってしまった友達Sがいる。
Sとは中学の同級生で同じ陸上競技部仲間だった。
そして、同じ部活仲間の中で最も仲が良かった。
僕が中学県大会で優勝し、その上の大きな大会である近畿大会に出場した時には、
Sは、わざわざ神戸から大会のあった和歌山まで3時間以上かかる距離をわざわざ応援に来てくれた。Sはそんな友達思いの心優しい奴だった。
お互いに進学した高校は違っていたけれど、家の最寄り駅が同じなので、引き続きよく遊んだ。
高校を卒業すると、僕が東京の大学に進学し地元を離れたこともあって、
僕が地元に帰る時以外にSと会うことはなかった。
だけど、大学卒業後にSが東京に出てきたので、また定期的に遊ぶようになった。
Sの父親は、私立高校の国語の先生だった。
Sは「将来、先生だけには絶対にならないぞ」「国語は嫌いだ」と中学の頃から事あるごとに言っていた。
その反動からか、Sは中学の頃から英語が好きで、高校卒業後は外国語大学に進学して英文学を学んだ。
また、大学在学中と卒業後にアメリカへ留学もした。
一方Sは、日本社会にあまり馴染めなかった。
理由は幾つかあるけれど、その大きな一つの理由に、Sは体が大きいということ。
Sの身長が195センチ近くあって、日本はSにとってサイズが小さすぎたのだ。
東京で天井の低い大江戸線に乗るときは、電車の乗り口を頭を下げないと乗れないし、無事に乗っても立っていると車内の天井に簡単に頭がぶつかってしまうから、
立って電車に乗っている間は、首を曲げて乗らなければならない。
服や靴のサイズがなかなか売っていなくて、Sはとても不便そうにしていた。
Sは日本は生活しにくいと言っていた。
そんなSが、日本以外で働く場所として選んだのが中国だった。
意外な選択で、Sはこれまで英語の勉強と英語に関わる仕事をしていたので、
英語圏ではなく、場所の選択には驚いた。
そして、Sが選択した仕事は、「日本語教師」だった。
Sは、父親を反面教師にして「先生はならない」「国語は嫌い」と言っていたのに、海外で日本語を教える仕事を選んだ。
日本に東日本大震災の影響がまだ残る2011年3月にSは、
中国の廈門(アモイ)に渡り、日本への留学を希望する学生に日本語を教え始めた。
それから2年くらい経った2013年の終わり頃にSは一度、日本に帰ってきた。
その時は、Sが中国の廈門(アモイ)で日本語を教えた生徒たちが、
何人かが既に日本へ留学していて、彼らも含めて食事した。
彼らのSを慕う様子に、「あ、やっぱりSはお父さんと同じで、先生に向いていたんだな」と思った。
その時、Sは「あと数ヶ月で廈門(アモイ)から上海の日本語学校に移る予定だ」
と今後の予定について僕に伝えた。
そして、Sは中国に戻った。
そこから、Sとは音信普通になってしまった。
Sの携帯電話は不通でメールアドレスも使われていない。
僕もこの1年で携帯電話番号が変わり、メールアドレスも変わった。
かれこれ音信不通になってから3年くらいになる。
お互いの実家も引っ越しているから、実家経由で連絡取ることもできない。
元々お互いにこまめに連絡し合うわけではなかったけれど、特にSが中国に渡ってからたまにしか連絡しなくなった。だけど、3年間も連絡がないのは始めてのことだ。
「便りがないことは、よい便り」というし、Sは上海(もしくは中国のどこか)で元気にそれなりにやっているだろう。
だけど、僕はそろそろSに会っていろいろ話をしたいなと思う。
特にこの2年くらいは、僕自信はとても暗く辛い時期だった。仕事もうまくいかず、更には上司からのパワハラに遭ってしまい、思いもせず短期間で転職することになった。そして、30代後半の転職活動はとても厳しく、それまでの自分のキャリアに価値がないという現実を突きつけられた。また、次の仕事が決まらないため、貯金は底をついた。
僕の不誠実から友達も失ったし、信頼も失った。
決して全てを失ったわけではなかったけれど、だけど多くを失った。
そんな話をSにしたい。
この話をした時のSの反応は分かっている。
「あほやな~。何やってんねん!」と言うだろう。
だけど分かっている反応を直接Sから聞きたい。
これから、少しずつSを探そうと思う。
このまま失ってしまってはいけない大切な旧友だ。
まずは、中国の廈門と上海の日本語教師から探してみよう。