人生再起の記録

30代後半で仕事・お金・友達・人脈を失ったところからの再起の記録

公立中学校という人生の中で一番いろんな人間がいた場所

30代後半で仕事もお金も人脈も友達もいない。

仕事はなかなか見つからず、焦る毎日。

 

最近見つかった「世界の名峰に登頂する」という夢の実現に向け、体力作りのために歩くことから始めた。

夕方に近所を歩いていると、近所にある私立中学校の学生の帰宅とすれ違う。

この私立中学校はこの辺りでも有名な進学男子校のようで、みんな育ちの良さそうなお坊ちゃんばかりだ。とにかく品がある。

 

毎日、彼らとすれ違っていると、僕は自分の通った中学校の事を思い出すようになった。

僕は神戸の公立中学校に通っていたのだけど、正直言って僕は自分の通った中学校はあまり好きではなかった。

僕は、部活に熱中していたので、学校には真面目に通学していたけれど、それ以外は最後まで好きではなかった。早く卒業して高校に行きたいと思っていた。

 

だけど、今振り返ってみると、実は僕が通った公立中学校は、僕がこれまで30年以上生きてきた中で、最もいろんなタイプの人間がいた場所だったことを知った。

中学を卒業した後の高校以降でもいろんなタイプの人間はいたが、それはある程度似たようなタイプが集まる中でのことだったと思う。

それは就職して会社や取引先といった一気に関わる人の年齢や地域が広がってもなお、公立中学校を超えるほどではなかった。

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僕の通った神戸の公立中学校は、「男子の髪型は丸刈り」というまるで戦時中のような校則があった。

丸刈りである理由は、「中学生らしい」から。丸刈りのどこが中学生らしいのか30代後半になった今もなお疑問。

丸刈りにした髪の長さが手の厚みを超えると、職員室で先生にバリカンで強制的に短くされた(僕は幸いこの仕打ちに遭うことはなかった)

この校則は、当時の神戸市内でも保護者含めて「おかしい」という風潮があって、丸刈りの校則を廃止する公立中学校が増えてきた。だけど、僕の通っていた中学校は頑なに丸刈り校則を廃止しようとしなかった。後に丸刈りの校則がなくなるのだけど、聞いたところによると神戸市内で丸刈りの校則を最後まで残した学校らしい。

 

■窓ガラスを割る同級生

そんな、理解できない「丸刈り」を強制させられていたこともあって、僕の通っていた公立中学校はとても荒れていた。校内暴力や近隣中学校(ここも丸刈り校則あり)との喧嘩はほぼ毎日あって、校舎の窓ガラスも常にどこかが割れていた。

窓ガラスはあまりにも割られるので、新しい窓ガラスの入れ替えが追い付いていなかった。ガラスが割れたままの窓から吹き込む冬の風が冷たかったのをよく覚えている。よく窓ガラスを割っている、怖いけど家が近所で割と話せる同級生に「なんでそんなに窓ガラス割るのか?」聞くと、「窓ガラスにガラスがあると割ってはいけないってルールがあるのか?窓ガラスにガラスがなきゃいけないルールってあるのか?あ?」と逆に聞かれた。

 それまで僕は、窓ガラスにはガラスが入っているものとばかり思っていた。
だけど、ガラスのない窓ガラスもあるってことを知った。

 

■恐怖の体育教師

ただ、こんなに荒れているので、先生もそれ相応の先生が配置される。

体育教師とは名ばかりの明らかに「その筋」系の怖い体育教師。

「その筋」系の怖い体育教師たちは、僕の通った中学や近隣の荒れた中学校を持ち回りで見ていた。教育委員会から使命を受けた「治安維持要員」だ。

 こんなエピソードがある。

僕が中学1年生の時のこと。

僕の公立中学校では、学年ごとに校舎が分けられていたのだど、1年生の校舎と2年生の校舎との間にある中庭に「その筋」系の怖い体育教師が立っていた。僕は1年生の校舎の3階の廊下でクラスメイトとその様子をたまたま見ていた。

そこへ、2年生の校舎の3階の教室の窓から2年生が、中庭にいる先生をからかい始めた。
どんな内容でからかっていたかは忘れたけれど、とにかくバカにするような言葉を先生に投げかけていたと思う。

 中学1年の僕であっても、その後にヤバいことが待っているのは想像つく。

だけど、その2年生はその後の事を想像しなかったのか、想像したけれどそれでも先生をからかったのか分からないけれど、やはりヤバいことになった。

中庭にいた先生は、突然猛ダッシュし始めた。もちろん目指すは2年生の校舎の3階。

あっと言う間に2年生がいる3階の教室に入り、その2年生の頭を掴み、教室にある掃除ロッカーに頭を2度ぶつけた。

ものすごい音がした。

掃除ロッカーにぶつけられる2年生の頭が僕がいた廊下からよく見えた。

掃除ロッカーは大きくへこみ、2年生の額からは血が出ていた。

そして、先生がその2年生に一言。「顔洗ってこい!」

 僕は、人生で初めて大人の暴力を目の当たりにしたし、大人の暴力がこんなにも近くになるとは思わなった。

 

■授業のボイコットリーダー

学年で幅を利かせているいわゆる「ワル」はそこかしこにいた。
だけど、完全に不登校ということはなく、割と学校には来ていたな。
今思うと不思議だ。

そんなワルたちは、たまに学校に来たかと思うと、必ず授業の妨害を図る。

こんなエピソードがある。

ある、新任の女性の先生の最初の授業。

先生が教室に入ってくると、クラスの全員が机を後ろに向けて座っていた。

そして、黒板に「お前の授業は受けない」と書かれていた。

これにショックを受けた先生は、教室を飛び出し、そのまま退職してしまった。

僕は、隣のクラスにいたのだけど、その時とても隣のクラスが騒がしかったので、僕のクラスで授業をしていた先生が隣のクラスに行き、自体が発覚した。

授業をボイコットをリードするは「ワル」は学年にたくさんいて、僕のクラスでも、授業中に突然先生に喧嘩を売って(本人的には突然ではなく、伏線があったのだろうが)、授業を妨害したり、窓ガラスが割られたり。

今思うと授業の妨害は「ワル」である一つの証みたいなものだったように思う。

 

■名前の書けない同級生

上3つは、「暴力」的な人間の話だが、学力についてもその後の人生で出会うことのなかった人間がいた。

公立中学校ということもあって、学力がバラバラだ。

頭の良い同級生は本当に良かった。勉強もスポーツも芸術もできるいわゆる「神童」と言われる生徒もいた。彼らの成績は主要5科目だけでなく副科目も含めてオール5。

一方で、悲しくなるくらい勉強のできない同級生もいた。
僕も成績は悪い方だったけれど、そんな成績の悪い僕でも彼らよりは勉強ができると言えるくらい。

どのくらい成績が悪いかというと、自分の名前が書けないくらいだ。

自分の名前を漢字で書けないのだ。もしくは書けていても間違っている。

自分の名前の漢字が書けないくらいなので、もちろん授業やテストにはついていけない。自分の名前が書けないある同級生は、数学のテストが全くわからないので、解答欄にダルマの絵を描いて提出していた。

なぜダルマを描いたのか?

それは、「ダルマ=手足がない=この問題には手も足もでない=お手上げ」というメッセージだったらしい。

自分の名前は書けないけれど、勉強がおそろしくできないけれど、笑いのセンスはあった。

僕は、自分の名前の書けないくらい頭のできがよろしくない人間に、高校以降に出会ったことがない。

誰だって名前くらい書けるだろうという、なんとなく持っていた「当たり前」を崩してくれた。名前を書けない中学生だって存在することを教えてくれた。

ちなみに、彼らの中学卒業後の進路は、就職か中卒で入学できる調理などの専門学校進学だった。

 

■多くの高校生を従える鬼姫

僕と中学3年間とも同じクラスだった女の子がいた。

 彼女は、いわゆる「ワル」なタイプだったのだけど、中学3年生にして、高校生を数十人を従えるほどの実力者だった。

周囲からは「鬼姫」と恐れられていた(僕にとっては普通の同じクラスの女の子だったけど)。

なぜ、彼女がそれだけ多くの高校生を従えることができていたのか、正直なところわからない。

だけど、中学生の僕にとって、年上の高校生を何十人も自分の配下に置いている彼女にとても衝撃を受けた。

メンバーが全員年上で、その年上に対していかんなくリーダーシップを発揮している人なんて、高校生以降でも出会ったことがない。

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ここに紹介した以外にも他にもいろんな人間がいた。

親から虐待を受けて、施設に入り、施設から通っている人。

紫色の髪色と紫色の学ランで通っていた人。

かと思えば、ピアノコンクールで全国1位になる人。

本当にいろんなタイプの人間がいたと思う。

この環境がその後の僕にどう影響したかというと、「世の中には自分が想像しているよりも遥かにいろんなタイプの人間がいて、その人たちによって成り立っている」ということが当たり前に思うようになった。

だから、僕はその後、割とたいていの人を受け入れることができている。

海外に行った際も日本と価値観や文化が異なっても全く違和感なく受け入れてこれている。むしろその違いを楽しめる。

大学進学を考えた場合に、私立の中高一貫校に通うのもいいかもしれないが、地元の公立中学校に通っていろんな人間に触れて過ごす少年時代も悪くないのではと思う。